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ENCOUNT(エンカウント)にて当院運営会社社長のインタビュー記事が掲載されます。

株式会社Creative2発信のENCOUNTサイトにて当院運営会社代表取締役社長 中尾充のインタビュー記事が掲載されます。

お時間のある時にご覧頂けますと幸いです。

ENCOUNT(エンカウント)サイト

URL:https://encount.press/

■3万人の街に暴走族が4つ メンバー160人の最大勢力に加入

 社会人になると、若い頃の生活からは想像もつかない職業で結果を出している経営者がいる。整骨院を中心に介護福祉、障がい福祉などのヘルスケア事業を展開する株式会社健生(宮城県仙台市)の中尾充社長は、元暴走族という異色の経歴を持つ。現在では柔道整復師の専門学校の理事長も務めるなど、教育にも情熱を注いでいる。人生を変えたターニングポイントとは。

 僕が起業したのは26のときですね。整骨院を中心とするヘルスケアという分野において、さまざまな支援を行う会社を経営しています。障がい福祉事業やスポーツ選手の引退後のセカンドキャリア育成にも力を入れています。学校法人の運営は来年で20年がたちます。これまでに卒業した生徒は1000人ぐらいですね。日本のような高齢者の先進国は、これからどんどん人口が減少して働き手がいなくなってきます。生産性を落とさず、少ない労力でどうまかなえばいいのかというのは、どんな業界でも抱える課題だと思っています。教育はそういった意味ではすごい大事だなと思って取り組んでいますね。

 出身は和歌山の有田市です。普通の家に生まれたのですが、親からは小遣いを与えられず、「自分で稼げ」と言われて育ちました。小学校4年生から新聞配達のアルバイトをして、毎日63軒を走って配りました。1か月で7000円がもらえました。「お金は自分で稼ぐもんや」というのはもう小学校のときからたたき込まれて、中学高校も部活動をしながら、アルバイトをずっとやっていました。中学では地元のかまぼこ屋さんで冷凍室の棚卸をしたり、すり身にする魚の内臓を取ったりする仕事を。高校では島に渡る渡し舟で水を配ったり、舟をいかだにつけたり、あと有田市で400年続いている鵜飼の船頭をしたりしましたね。

 暴走族に入ったのは、中学3年生のときです。ちょうど「積木くずし」や「スクール☆ウォーズ」「BE-BOP-HIGHSCHOOL」が全盛期。ヤンキーが主流の世の中だったので、ちょっとけんかが強くてちょっと悪かったら、お前も入れよみたいな感じでみんな暴走族になっちゃうんですよ。人口が3万人ぐらいしかいない街なのに暴走族は4つあって、その中で一番大きい暴走族にいました。メンバーは160人ぐらい。今思えば、よくこんなにこんなにちっちゃい街で、不良が徒党を組んでやっていたなっていうのはありますよね(笑い)

 都会の暴走族みたいに、抜けるから焼きを入れられるようなこともなくて、やめるのも自由で緩い感じでした。僕自身はやっぱり、バイクが好きだったですね。もう使い物にならない、捨ててあるようなバイクを拾ってきて自分たちで分解します。エンジンも自分たちでばらしてもう1回組み立てて再生したり、変な話ナンバープレートも自分たちで作って貼り付けて乗っていましたよ。それぐらい夢中になっていました。

■謹慎11回うち4回は無期停学処分 高校卒業できた驚きの理由

 高校2年のときに椎間板ヘルニアでスポーツができなくなると、さらに不良に拍車がかかって、ぐれちゃいましたね。僕はもう高校のレコード記録だと思うんですけど、11回謹慎になっているんですよ。うち4回が無期停学処分です。3年生のときは卒業できないぐらい日数も足りなかったんですけど、たまたまラッキーなことに学生相撲日本一の同級生がいて、彼を卒業させなきゃいけないというミッションがたぶん、高校にあったんですよね。最後は彼といるときに、先生が教壇の上に答案用紙を置いて「急用を思い出して今からここの部屋を10分間出るから、ここにある答案用紙は絶対見るなよ」と言って出ていくんですよ。それで卒業させてもらったということがありました。

 高校を卒業してからは大阪の専門学校に行きました。一転、ジャニーズ系にイメチェンして学生とディスコ従業員の二足のわらじで2年を過ごしました。そうじゃないと見た目がヤンキーだからディスコに入れてもらえなかった。雑誌を見て一生懸命、雰囲気を変えて当時日本を席巻していたミナミのマハラジャでアルバイトしました。

 その後、大阪で鍼灸師として就職するんですけど、すぐに物足りなさを感じましたね。柔道整復師の資格を取って、整骨院を開業しようと思いました。仙台の柔道整復師の学校に合格したのが転機になります。学校を卒業してすぐに「マネーの虎」のような企画を見つけて、それに応募したら選ばれたんですよ。開業費用の1500万を卒業してたった2か月ぐらいで手にしました。それが、今の会社の前身・宮町鍼灸整骨院のスタートです。最初の2年は自分の給料を25万と決めて会社のお金をため、2年目に1店舗を増やして3年目に2店舗を増やして4店舗になって、4年目には8店舗になって…と倍々ゲームです。33ぐらいで27店舗ぐらいまで整骨院は増えました。

 当時の業界では異端児で有名だったですね。どこの馬の骨とも分からんもんが関西から流れてきて、彗星のごとく現れてグワーッと組織を広げていくわけじゃないですか。若いのにベンツ乗っていると、僕らよりちょっと上の先生方が面白くないわけですよ。業界に袋叩きにされ、陰湿なトラップを仕掛けられてつぶされそうになったこともあります。僕は自分がつぶされないために必死にやって、だんだんと事業を拡大していきました。

■故梅宮辰夫さん秘話 料理人として真鶴の別荘に通った日々

 著名人では、竹内力さんや梅宮アンナさんと交流があります。竹内さんはもともと大分でやんちゃをしていて、元銀行マンというキャリアなんですよ。僕より3つ上なんですけど、親近感を覚えて、何でも話せるようになりましたね。梅宮家とも、家族ぐるみのような付き合いがありました。梅宮辰夫さんがお亡くなりになる前のリハビリもこそっと病室に行ってやっていました。辰夫さんはすごい人だったですよね。懐の大きい、ザ・昭和の芸能人。人を集めて人を喜ばすサービス精神が非常に旺盛な人でした。料理が好きで、僕も料理をするので、真鶴の家にはしょっちゅう行って料理を作っていましたね。僕が梅宮家で料理するときは辰夫さんの「辰ちゃんエプロン」を僕がして、料理をふるまいました。

 今、やんちゃしている若い人たちもいると思います。もし、僕が言葉を送れるとしたら、取り返しのつかないような無茶はしないほうがいいよっていうことが一つ。あとはやっぱり何か目標を持って、チャレンジしないよりはしたほうがいいんじゃないかなと思います。挑戦しなければ何も生まれないし、若いうちは失敗してもまた取り返しがきく。特に20代、30代は全てを失ったとしてもゼロスタートを何回やってもいいと思います。

 僕の大好きな言葉に「感動創造」という言葉があります。誰と接するときでも、相手の期待値を超えてきたら感動に変わるじゃないですか。だから、常に期待値を超えるような人との接し方を心がけていますね。そういう信念を持って、ヘルスケアの業界の発展にこれからも力を尽くしていきたいと思います。

□中尾充(なかお・みつる)1967年6月29日、和歌山県有田市出身。97年、有限会社「健生」設立。2001年、株式会社へと改組。学校法人健生学園東日本医療専門学校理事長、ジャパン柔道整復師会会長。19年、ダヴィンチ英知保育園開園。特技は日本拳法、水泳、柔道。